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『こんにちは!酒井とし夫です。』

◆酒井とし夫オフィシャル・プロフィール
※酒井とし夫の超長い!プライベート・プロフィールは下にあります。
会社名:ファーストアドバンテージ 有限会社
代表者:酒井とし夫
所在地:〒949-0303 新潟県糸魚川市田海2886-1
e-mail:
tel:025-562-2715
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小さな会社やお店の集客、売上アップ、広告宣伝ノウハウ、心理学マーケティング、広告コピー、POPコピー作成等のテーマで講演しています。全国の商工会議所さん、法人会さん、商店街さん、社員研修会、店長研修会、青年会議所、企業研修会で好評です。

講演会の詳細はこちら。ご参加頂いた皆様ありがとうございました。
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(読者数 2万6300人 平成22年05月現在)
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事業内容:
IT・ビジネスコンサルティング事業
トレーディング・インストラクション事業
セミナーDVD販売
書籍出版・講演活動
酒井とし夫
1962年4月10日生まれ。新潟在住。現在、マーケティング&トレーディングカンパニー「ファーストアドバンテージ有限会社」代表取締役。
立教大学社会学部卒業後、中堅広告代理店勤務。その後、広告制作会社を設立。以降、広告制作、モデル派遣事業、撮影ディレクション、アイデア商品販売、キャラクターグッズ販売、露天商、パソコン家庭教師派遣事業、パソコン・スクール事業、トレーディング・インストラクション事業、インターネット通販、コンサルティング事業等数々のビジネスを立ち上げる。
現在、ビジネスやトレーディングに関するE-Bookやマニュアル、CD、セミナーDVDを5年間で1万3900本以上販売した情報起業家として、また、小さな会社の経営者や起業志望者を応援するコンサルタント、アドバイザー、講演者として活躍。
読者数2万5千人(2009年12月現在)を超えるメルマガ「1分で学ぶ!小さな会社やお店の集客・広告宣伝・販促」の作者として、月間PV1万5千人超えのブログ「集客方法とキャッチコピーと広告宣伝の秘訣」のブロガーとしても注目を集める。
出版書籍の「小さな会社が低予算ですぐにできる広告宣伝心理術」(日本能率協会マネジメントセンター刊)はアマゾン書店でマーケティング部門1位を獲得。そして、「売れるキャッチコピーがスラスラ書ける本」(日本能率協会マネジメントセンター刊)も広告宣伝部門第1位を獲得。
各地商工会議所、法人会、企業、ショッピングセンター、会計事務所等での講演依頼も多く、「小さな会社やお店の心理マーケティング」「売れるキャッチコピーと広告文章の書き方」「お金をかけずに売上げを伸ばす7つの広告宣伝販促ノウハウ」等が人気テーマ。
(講演活動の詳細はこちら。)
メルマガ「1分で学ぶ!小さな会社やお店の集客・広告宣伝・販促」
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運営ブログ
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◆酒井とし夫のビジネス教材
●オリジナルセミナーDVD
・小さな会社やお店がお金をかけずに売上げを伸ばす!7つの広告宣伝・販促ノウハウ
・小さな会社やお店の心理マーケティング
・2時間で分かる!!10倍売れるキャッチコピーと広告文章がスラスラ書けるセミナー
・お金をかけずに売上げを伸ばしたインターネットビジネスと広告宣伝心理術
・小さな会社やお店の売上げを伸ばすための9つの経営戦略
●販売権取得セミナーDVD
・インターネットビジネス成功の鉄則ヤニクシルバー記念セミナー完全版(日本向けバージョン)
◆酒井とし夫の
プライベート・プロフィールはこちら

初めまして、酒井とし夫です。
こちらに記載の私のプライベート・プロフィールはかなり長い!!
のでご興味とお時間のある方向けです。
でも、結構、面白い経歴と人生を歩んでいると思いますので
ご興味のある方はお読みください。
■誕生は・・。
酒井とし夫は1962年4月10日に新潟県で生まれました。
1歳の頃の世の中の記憶は「すすけた茶色の世界」でしたが、
それは家が工場近くの社宅で、当時は道路も舗装されておらず
トラックが家の前を一日中走っていたからだと思います。
はいはい歩きができるようになると玄関から外に出て、
トラックが行きかう道路を器用に渡っていたらしく、
近所の人をハラハラドキドキさせる赤ちゃんだったようです。
その頃、道端の牛乳ビンのかけらで遊んでいて
右手の人さし指の付け根を切り、大出血!
母が慌てて近くの病院に駆け込み、そこで縫合手術を受けました。
おそらく2歳になる前のことですが、手術台の上にあった照明が
「ピカーーッ」と、まぶしかった記憶があります。
■両親について。
母は5人兄弟の長女で九州で生まれ。
子供の頃に里子にだされ大きなお屋敷で育てられたのだそうです。
母曰く「ものすご〜く大きな家で女中さんも一杯いたんだよ。」とのこと。
しかし、母が中学生の頃に実の親に呼び戻され
一転した貧乏生活がスタートすることになりました。
他の兄弟と10数年ぶりに再会した母は家にも馴染めずに苦労したそうです。
父は私が保育園に通っている頃に工場の事故で亡くなりました。
後で聞いた話では他の従業員の方を助けようとして
事故にあったそうです。
お葬式の時に泣きじゃくる母に向かって
「何で泣いてるの?」と言ったことを覚えています。
その父の顔は今は全く思い出せませんが、
朝、私が食事を食べるのが遅く、よく叱られた光景を覚えています。
その後、母は再婚し、新しい父がやってきました。
子供だった私は新しくやってきた父とすぐに仲良くなりました。
父は小柄だけど力持ち。
仕事で土木作業の運転手をしていたせいか
近所にあまり自動車を持っている家がない時代に
自家用車を所有し、そのであちこちに連れて行ってくれました。
■保育園の悲しい!?思い出。
保育園では友だちが多く、その頃流行っていた
「一年生になった〜ら、いちねんせいになった〜ら
友だち100人できるかなぁ・・。」という歌のとおり
本当に友だちが100人くらいできると自分でも思っていました。
保育園で一番イヤだったのはお昼寝の時間。
その理由はおねしょ。
保育園でおねしょをした記憶はないのですが
子供心にも「お昼寝の時におねしょをしたらカッコワルい」という
意識が強く、そのためおしっこが出ないように
○チン○ンを股の間にぎゅーっと挟んで「くの字」になって寝ていました。
ある日のこと、お昼寝の時間になかなか眠れないことがありました。
その時、私は「くの字」の体勢で寝たフリをしながらお昼寝の時間を
なんとかやりすごそうと考えていました。
そして、寝たフリをしながらもおねしょが気になった私は
「くの字」にした足をさらにぎゅぎゅうさせて
○チン○ンを股に挟み込もうとしていたので、
体がズリズリっと少しずつ前に進みだしました。
何度も何度も足で挟みを続けている間に私の体は前進し続け、
近くで添い寝をしている保母さんに向かってズイズイと向かっていきました。
するとその時に保母さんがこう言いました。
「あら、やだっ〜!この子どんどん私に迫ってくる〜っ。」
日ごろ、一緒に遊んでくれていたお姉さんの
「やだっ〜!」という言葉を聞いた私は心の中で
「ぼくはお姉さんに嫌われているんだ〜!ガ〜ン!!」
と深いショックを受けたのです。
その日、お昼寝の時間が終わっても
起き上がることができなかったのは言うまでもありません。
■努力家で天才!?の小学生
小学校の思い出は入学式で初めて足を踏み入れた
広い校庭の景色。
春の桜が空一面にひらひらと舞う桃色の世界。
「なんだかいいところにきたなあ。」
という感じでした。
小学校入学当時はこんな子ども。
↓

(うひゃ〜、モノクロの時代だっ。)
小学生の低学年の頃はあまり勉強もせず
とにかく友だちと遊んでいました。
学校が終わると鍵っ子だったので家に帰っても誰もいないので
すぐに外へ出て遊んでいました。
目の前は広い砂浜、裏には公園や空き地がいっぱいありました。
秘密基地作り、路地裏探検、野球、石投げ、
銀球鉄砲、砂遊び、爆竹、自転車、ブーメランでよく遊び、
お小遣いでベビーラーメンを買って食べるのがとても楽しみでした。
近所のおさな馴染や従兄弟に女の子が多かったせいか、
結構、女の子ともよく遊んでいました。
近所のよし子ちゃんが話してくれる「空想物語(=作り話)」が
好きでした。
低学年の頃は足が遅いのがコンプレックスで、
運動会になると足の速い子をうらやましく思っていましたが、
ある時、(たぶん小学4年生位)一念発起して
毎朝5時起きして浜辺でのランニングを始めました。
そのおかげで高学年になるとリレーの選手に選ばれるようになりました。
「自分って意外と時間をかけてコツコツやる奴だなあ。」
と思い始めたのはこの頃です。
勉強はあまり出来ませんでした。
家に帰っても教科書を開いたことがないうえに
集中力もなかったので通知表はいつも5段階評価で「3」が
ずら〜っと並んでいました。
ある年の春うららかな算数の時間のことでした。
私は一番窓側の席だったので外を見ながら
鼻をホジホジとしていたら、担任の斉藤玲子先生(今から思うと結構美人!な先生)が
こんなことを言いました。
「前回の数学のテストの答え合わせをします。
前回のテスト用紙を机の上に出してください。」
ぼ〜っとしながらもそもそと机の中からテスト用紙を引っ張り出して
答え合わせをしました。
案の定というか、当たり前というか、私の答えはほとんど
間違っていました。
まあ、いつものことなので別に驚くことではないので
相変わらず鼻をホジホジしていました。
すると斉藤玲子先生がこんなことを言いました。
「5番の問題ですが、これは非常に難しい問題でしたね。
この問題は学年でも一人しか解けませんでした。
この問題ができた人は”天才”ですね。」
教室内は「誰だ?問題が解けたのは?」
とザワザワしはじめました。
「へ〜っ、天才ねえ・・・。
誰だ?斉木(=クラスで一番頭の良かった女子)か、
一郎くん(=私の小学校時代の親友で超頭が良かった男子)か?」
すると斉藤玲子先生が言いました。
「正解したのは酒井くんです。」
「でぁ〜〜〜〜〜っああぁぁぁ?!」
一番びっくりしたのは当然私です。
口がパカッと開いた私に向かって
教室内の視線がいっせい集まりました。
その時はピカ〜っ!と教室の天井が光ったように思えました。
休憩時間になると斉木(=クラスで一番頭の良かった女子。しかも性格もとても良かった。)が
私のところにやってきて
「ねえ、どうやって解いたん?教えて」
と言いました。
何をどうやって説明したかは覚えていませんが
偉そ〜に説明したことは覚えています。
この出来事は私にとってはかなり衝撃的な出来事でした。
(だってホントに馬鹿だったんですから。
授業中は下敷きの岡田奈々ちゃんを見ては「かわいいなあ・・」と
思いながら時間の過ぎるのを待っているような子でした。)
■万年2位の剣道大会
小学校の3年生になると町の剣道教室に通い始めました。
ここでもコツコツ型の性格が現れ、友だちが休んだり遊んでふざけていても
「えぃっ、えぃっ」
と一人で黙々と竹刀で素振りとすり足を繰り返す子供でした。
そのおかげで1年もすると地区の大会では決勝戦の常連になりました。
しかし、いつも万年2位。
そして、優勝するのはいつも博之くんでした。
博之くんは運動神経抜群の練習熱心な小学生でした。
しかも、精神力も凄いんです。
決勝戦でいつも博之くんと対戦すると面と面がぶつかる度に
目をぎらぎらさせながらこう言っていました。
「絶対にオレが勝つっ!!フ〜ッ、フ〜ッ。(吐息)
絶対にオレが勝つ〜。」
私はコツコツ型の練習熱心な子ではありましたが
競争意識というか闘争心がなかったようで
「そうか、博之くんはそんなに勝ちたいんだ。」
などと思っている間にパカ〜んといつも見事な「面一本っ!!」を
決められ負けていました。
だから実家には2位の賞状ばかりがたくさんあります。
昼間は鍵っ子だったので家に居るときは自分で
お湯を沸かしてコーヒーを飲んでいました。
特に土曜の放課後は遊ばずに家にまっすぐに帰ってきて
ポットのお湯でインスタントコーヒーを入れて、TVの前で
ワクワクしていました。
私の記憶が正しければ、当時、新潟では
土曜の午後にディズニーのアニメが放映され、
その後で笑点が放送されていました。
この2つの番組をコーヒーを飲みながら一人で
見るのが週末の楽しみの一つでした。
(歌丸さんと小遊三さんのやり取りと司会の南伸介さんが
面白かったなあ。)
そういえば漫画も大好きでした。
特に少年ジャンプのトイレット博士とハレンチ学園が
大のお気に入り!
トレシングペーパー代わりに習字用紙を使って
ハレンチ学園のヒゲゴジラ先生や丸ゴシ先生、マカロニ先生、そして
十兵衛やあゆちゃん(昭和30年世代は知ってますよね)や
トイレット博士の絵を描いてはよく親に怒られていました。
(そりゃそうだ。裸とウンチの絵だもん。)
■勢いで生徒会長に立候補してしまった中学時代。
中学校では野球部に入りました。
小学校時代に友だちと毎日のように放課後になると野球をしていたので
自分では野球が上手いと思っていました。
しかし、野球部に入って先輩の投げる球を全く打てず、
ノックでは全然捕球できずで「が〜ん!」と大ショック。
そこでまたもやコツコツ型の性格がムクムクと湧き出し、
毎日早起きして家の近くのアパートの壁にボールを投げては
捕球する練習を繰り返しました。
(今から思うと朝早くから壁にボールをがんがんぶつけていたので
アパートに住んでいる人はうるさかったと思います。
今なら完璧に怒られているだろうなあ。)
その練習が功を奏したのか一年生の秋の大会から
ショートで5番のレギュラーになりました。
新人戦では3安打の猛打賞!!
しか〜し、あまりの緊張からか守備では一塁への大暴投で
サヨナラ負け。
あの試合後から一塁へ投げることが怖くなってしまいました。
それから卒業までショートやファーストでずっと
試合には出させてもらったのですが、最後の最後の試合まで
捕球後の送球では手が縮こまって送球が乱れて苦労しました。
中学生になるとさすがに少年ジャンプは読まなくなりましたが
変わって私の愛読書は「ロードショー」と「スクリーン」になりました。
そうです。映画が大大大好きになったのです。
中学時代に観た映画で衝撃的だったのは「小さな恋のメロディ」と「ロッキー」。
「小さな恋のメロディ」は深夜番組で放送されていたものを観たのですが
新潟のど田舎の中学生にはかなりの衝撃でした。
「世の中にはこんな世界があるのか〜っ」と驚き、それから3ヶ月ほどは
理由の分からない胸の高揚感とやるせなさと主演のトレーシー・ハイドの
かわいらしさが頭から離れず、身体がフワフワした状態でした。
当時、親にねだって昔使っていた古〜いテレビを2階の勉強部屋に
設置してもらいました。「NHKのマーシャ・クラッカワーさんの
英会話講座を見て英語の勉強をするのだ!」と親には言っていましたが、
当然、本当は「11PM」をこっそりと見るためです。
「11PM」を夜中に見ていたらアメリカでヒットしている映画が
紹介されていました。
やけに目が垂れた、鼻のつぶれた男がボクシングで
めった打ちにされているシーンでした。
それが「ロッキー」。
地元に一軒だけ残っていた映画館で「ロッキー」が上映されると
すぐに観に行きました。
この時も理由はよく分かりませんが、なんだか不思議な高揚感と
切なさとシルベスター・スタローンの顔が頭から離れず、ぼ〜っとした
状態が数週間続きました。
「ロッキー」の上映最終日の最終上映時間の始まりは
平日の午後1時でした。
ど〜してももう一度観たかった私は4時間目の授業が終わった時に
職員室に行き、学生生活で初めて先生に嘘をつきました。
「先生!おなかが痛いので早退させてください。」
おなかが痛いふりをしながらヨタヨタと校庭を横切り、
校舎が見えなくなると、猛ダッシュでバス停に行き、隣町の
映画館へ直行して最終上映の「ロッキー」を観ました。
上映終了後、しばし、映画館の入り口に掲げられていたロッキーの
ポスターを眺めていました。
お腹が空いた私は映画館をそば屋に入って
ざるそばを食べました。
するとそのそば屋の壁に「ロッキー」のポスターを発見!!
内気な私はおそるおそるそば屋のおばさんにこう言いました。
「す・す・すいません。このポスターもらえませんか。」
すると、そば屋のおばさんは「いいよ」と言ってくれました。
うれしかったなあ・・・。
人生、ダメもとで言ってみるもんだなあと思いながら
「タッタ〜タタタ〜タタ、タッタカタ〜っ」とロッキーのテーマソングを
口ずさみながら家に帰りました。
家には学校から電話が入っていたらしく、しこたま親に叱られ
夕飯抜きの夜になりました。
その日は叱られたことも、夕飯抜きも全然苦になりませんでした。
「よ〜し!」
と、こぶしを握り締めて、2階の屋根の上から空を見上げました。
「気合が入っていると腹もへらんもんだ。」
と思いましたが、それは先ほどそばを食べたからだったとは
多分、その時は気づいていなかったと思います。
ロッキーを初めて観たのがこの中学時代、ロッキー2は高校生の時に
高田という日本有数の豪雪地帯の映画館で隣のクラスの女の子と観ました。
そしてあっけなくフラれました。ロッキー3は大学入学後にカミサンと渋谷で
見ました。二人でボロボロと泣きました。その日は三回連続で観ました。
ロッキー4は就職してから銀座で観ました。
「ロッキーはモチベーションが高いなあ」などと感心しながら
仕事に意欲の沸かない自分を情けなく思っていました。
そしてロッキー5は独立してから池袋で観ました。
「ロッキーも年を取ったのお。」と少し寂しくなりました。
ロッキー6が封切られたのは新潟に帰って再起業してから。
地元では上映されないので新幹線で東京まで行きお台場で観ました。
驚くべきというか当たり前というか
観客は10人もいませんでした。年月の流れを感じちゃいましたが、
ロッキーファンとしてはやっぱりハッピーエンドで終わり
右手を高く掲げるロッキーを見て泣いてしまいました。
上映後はスクリーンに向かってm(__)mをして、バイバイと手を振って
映画館を出てきました。
ロッキーは私の人生の節目節目で勇気付けてくれた映画です。
今はもちろん全巻DVDとポスターが揃っています。
今でも折に触れ観ています。
ロッキーの影響なのかは分かりませんが、
中学生活をぼーっとしたまま過ごしていた内気な私は
何を思ったのか生徒会長に立候候補して見事!?に当選してしまいました。
その時に初めて気がつきましたが私は極度の緊張症であることが
分かりました。
毎週、全校生徒の前で全校朝礼の司会をしたり、
運動部の壮行会で挨拶をしたり、新入生歓迎式で話をしたり
しましたが、今でも何をしゃべっていたのかよく覚えていません。
卒業式の答辞では原稿があまりに良く出来ていたせいか?!
自分で自分が書いた原稿を読みながら感動してしまい
涙ボロボロ、鼻水ぐしゅぐしゅの答辞となってしまいました。
■豪雪の地・高田で下宿生活を送った高校時代。
中学を卒業した私は地元から離れた高校へ入学しました。
中学時代は
「どうも自分を表現できていない。」
という思いが強くあり、
「環境を変えたい!」
と強く思っていました。
そのため地元の友だちは誰もいない
高校を選んだのですが、そこは地元から電車で通うには
遠い豪雪地帯・高田という町です。
そこで下宿生活を始めたのです。
下宿生活の初日は雨がしとしと降り、夜になると一人で窓の外を眺めていましたが
雨が流れ落ちる窓に、遠くの信号機の明かりがボ〜ッと映り込み
寂しい夜だったことを覚えています。
学校に行っても一人も友だちがおらず、
しばらくは寂しい思いをしましたが、しかし、さすがに当時は15歳。
すぐに気の合う友達が出来始めました。
当然、放課後は下宿が溜まり場になり、
未成年では飲んではいけなかったかもしれない飲み物や
吸ってはいけなかったかもしれない嗜好品も楽しんでいた
ような、いなかったような記憶があります!?
下宿にはテレビがなかったので
一人でいる時にはよくラジオを聴いて過ごしました。
当時はさだまさしやオフコースといった
フォークソングがよく流れ、オールナイトニッポンでは
タモリやビートたけし、デビューしたばかりの長渕剛等が
パーソナリティを務めていました。
ご飯は下宿の小さな食堂で食べるのですが
そこには昭和初期のものと思われる古〜いラジオがありました。
夕ご飯時にはいつもそのラジオから
「ちゃ〜ん、ちゃかちゃ〜んちゃか、ちゃんちゃんちゃん、
ちゃ〜ん、ちゃかちゃんちゃか、ちゃ〜ん・・。」
というテーマソングとともに「小沢昭一的こころ」が流れていました。
かならず「とおるクン」が登場する軽妙な語りが高校生の私にもウケていました。
成人してから知ったのですが
このころ我が家の経済状態は最悪だったようです。
父が商売をして失敗し、多額の借金を背負い、
毎日のように借金取りが実家に来ていたようです。
下宿していた私は全く気がつかなかったのですが、
母は連日の取立ての怖さから、父と離婚して故郷の九州へ
私を連れて行く寸前の状況だったようです。
そんなことも露知らず、私は高校生活を満喫していました。
何より友だちが面白かった。
友だちのおかげで本来の自分が出せるようになり、
ず〜〜〜っと一緒に遊んでいても、全然飽きることなく
いつも楽しく遊んでいました。
中学時代に「背が高くなりたいっ!」という強い思いがあり、
高校に入ったらバレー部に入ろうと思っていました。
しかし、入学後に知ることになったのですが
その高校には男子バレー部がありませんでした。
アホですね。そんなことも調べなかったのです。
しかも、女子バレー部はあり、全国でも名だたる強豪バレー部でした。
だから、放課後にクラスの有志を集めては
学校近くの公園でバレーをして遊んでいました。
「これではいかん!男子バレー部を作るのだ」
2年生の時、ついに一大決心をしました。
そして、ある日のお昼、校内放送を使って私は男子バレー部の
創設を呼びかけました。
「私は〜、この高校に男子バレー部を作りまっす!
バレーが好きな男子よ、放課後に2年3組に集まれ〜。」
・・・しかし、集まったのはわずか5人。
私を入れて6人。ギリギリですね。チームとしては。
しかも、私以外は皆1年生。
しかも、しかも私以外は中学でバレー部だった子ばかり。
数ヶ月練習しましたがある日、
一人の生意気な下級生と取っ組みあいのケンカとなり
思わずカッとなってバコ〜ん!と手が出てあっけなく退部。
ウツウツとしながら学校を飛び出し、
町の映画館に入りました。
その時に上映されていたのがエイリアン・・・。
さっきのケンカのことを完全に忘れるほどビビリながら
一人で映画を観ていました。あ〜怖かった。
■大ウケの漫才。
高校生活の一番の思い出は文化祭。
ホームルームの時間にクラスの出し物を決めていたら
五十嵐さん(目のパッチリした髪がサラサラの女子)が
手を上げてこう言ったのです。
「酒井くんと晃くんの漫才が見たいです。」
「でぇ〜〜〜〜っ!何言ってんの〜っ??」
私と晃はビックリ。
どうやら五十嵐さんは休み時間に晃と私がいつも
話しているのを聞いていたらしく、その会話が彼女の笑いのツボに
ピッタリはまっていたらしいのです。
で、結局、学園祭では私と晃で漫才をすることになりました。
決まれば、そこはコツコツやる私のこと、数週間かかって
台本を書き上げました。
それからは毎日放課後は屋上へ直行。
晃と2人で
「んなアホなっ!」
と漫才の練習を繰り返しました。
ある程度流れができると昼休みに他の友だちにネタ見せをして、
ウケない部分を修正して、また放課後練習して・・・という
ことを本番の学園祭当日まで繰り返していました。
結局、ネタは2本作りました。
学園祭当日はクラスの友だちの全面的バックアップのおかげで
教室は人人人で一杯になり、廊下まで溢れていました。
教室にしつらえた舞台の上手と下手から私と晃が登場し
「ども〜っ」
と漫才が始まりました。
教室は笑い声に包まれ、最初から最後までウケまくり、
大盛況!!でした。
学園祭が終わってからしばらくして国語の時間に先生が
こう言ってくれました。
「あの漫才は本当に良かった。感動した。
お前たちは絶対に東大に入れる。」
とても嬉しかったなあ・・・。
しか〜し、世の中そんなに甘くないのは当たり前で
高校でも全く勉強しなかった私の成績は3年生になる頃には
学年でも下の方へ落ちていました。
大学へは行きたかったので当時の共通一次試験を受けましたが
志望校には全く、はるかに、全然届かず、数校受けた私立も全滅。
そして浪人生活に入ることになりました。
今から振り返ると家の経済状態も知らずに親不孝者ですね。
■アフロヘア?の浪人時代
浪人突入は決まっていましたが、高校の卒業式の翌日には
なぜか
「ついに高校を卒業だ〜。オレは自由だ〜。」
と思ってしまい、そしてなぜかパーマをかけたくなりました。
下宿先の近所にあった美容室のドアを恐る恐るあけ、
椅子に座りました。
「どんな感じにしますか?」
私はポケットから雑誌の切抜きを取り出し、
「こんな感じにして欲しい。」
と言いました。
それは中学校の頃から憧れていた中村雅俊さんの写真。
しかし、数時間後、鏡の前に映ったのは
パンチパーマのような兄ちゃん。
それはそうですよね。
高校生の短い髪をクルクルに巻いちゃったんですから。
その夜、高校の友だちが集まった卒業祝いのパーティでは
「なんだ〜、その頭は?石立鉄男かオマエは。うハハーっ」
とみんなに笑われる始末。
結局、浪人時代はその頭で過ごしました。
パーマをかけた髪が伸びて、さらに何度かパーマをかけて
最終的にはクリスタルキングのボーカルの人みたいな頭でした。
浪人時代は高田駅近くの新潟予備校に通いました。
この頃には国立はあきらめて私立に絞っていました。
しかし、どこに行きたいという大学はありませんでした。
今から思うと無目的な学生ですね。
浪人時代は自分でも「しっかり勉強しなくちゃいかんな」と
思っていたので結構真剣に毎日予備校に通いました。
進路相談のために予備校の先生と話をする機会がありました。
「酒井、おまえどうするの?」
当時、私は英語だけは得意でしたので
「英語を勉強できるところ」と伝えたのですが
その時に先生にこう言われました。
「それなら立教大学に観光学科というところがあるぞ。
ここで仕事に使える生きた英語を学んだらどうだ!」
この時に何故か
「そうだな。自分はその大学に行こう。」
と直感しました。
(その時点では立教に合格する水準ではありませんでしたが・・・。)
それからまたコツコツ型の性格が現れました。
まず、文房具屋に行って赤ボールペンを100本買いました。
その100本を机の上の大き目のコップにどさっ!立てました。
そして、こう決めました。
「よ〜し、今日から一年でこのボールペンを使い切るまで
勉強するぞ。」
それから毎日、教科書を読んでは「手で書く」ということを
ひたすら繰り返しました。
最初の数日でめげそうになりましたが、しばらく続けると
赤ボールペンを1本使い切りました。
大き目のコップをもう一つ机の上に置き、使い切ったボールペンを
1本そのコップに入れました。
「お〜っ!!」
なぜか充実感というか達成感が身体にみなぎったことを覚えています。
ボールペンを使い切る本数が増えるにつれて
模擬試験での成績も上がり、受験前には何とか合格水準までの
成績を取れるようになりました。
受験前日に目白の古〜い旅館らしき?建物に宿泊し
青山学院、立教、早稲田の順で受験をしました。
青山学院と立教には合格しました。
その時点で早稲田の受験に行くモチベーションが
がく〜んと下がり、早稲田の受験日には上野動物園で
一日中ゴリラを見て過ごしました。
浪人時代は結構勉強しましたし、充実感のある毎日を過ごせました。
この時代に目標を立て、それを実現する計画を立て、
着実にボールペンを使い切り、目標を手に入れた経験は
その後の私の人生で大きな意味があったと思います。
浪人時代も相変わらず家は貧乏で朝はご飯だけ炊いておにぎりにして食べ、
昼は毎日、阿部ちゃん(友だち)と260円のぽっぽラーメンを食べ、
(予備校近くの長崎屋の食堂にあったラーメン。卵入りなので貴重な
栄養源!?でした。)、夜は野菜を刻んで醤油をかけて食っていました。
風呂もないので週に何度か歩いて20分くらいかかる銭湯に行き、
他の日は洗面所で身体を洗っていました。
高田の冬はむちゃくしゃ寒いのでよく風邪を引かなかったものです。
免疫力が高かったんですねえ。
浪人時代の下宿は夜の繁華街のど真ん中にあったので
毎日酔っ払いが騒いでいましたが、あまり気にもならず
ドテラを着込んで勉強していました。
まあ、当時は貧しいとか、つまらないとか、そんな感情は一切無く
日々充実していました。目標があったからですね。きっと。
■大好きなバアちゃん。
浪人時代にも悲しい出来事が2つありました。
一つはおばあちゃんが死んだこと。
受験直前の寒い冬に亡くなりました。
年末から体調を崩し、入院していたのですが
まさか死ぬとは思っていませんでした。
人が死ぬということを身近なものとして感じられる年ではなかったのですね。
きっと。
保育園、小学校と両親が働いていたので
おばあちゃんにはよく面倒を見てもらいました。
中学校の時は同じ部屋で寝ていたので
よく寝る前に話をしていました。
高校時代には週末に下宿に何度も来てくれました。
帰り際に毎回100円玉を何枚かくれました。
少ない年金から捻出してくれたものだと思います。
おばあちゃんからもらったその100円玉で毎日お昼は
菓子パンを一個買って食べていました。
高校卒業後、私が受験に失敗した私をかばうように
近所や親戚の人に「あの子は実力をだせなかったんだよ。」と
言って私をかばってくれていたそうです。
年末に病院におばあちゃんのお見舞いに行きました。
頭が痒いというので、何度も頭を掻いてあげました。
おばあちゃんは
「ありがとう。ありがとう。」
と何度も繰り返しました。あの日がおばあちゃんとの最後の日となりました。
もう一つの悲しい出来事は1友だちのアベのお母さんの死です。
アベは高校からの友だちで同じ予備校に通っていました。
アベは高校時代にはバスケットボール部のレギュラー選手。
一度ジャンプすると滞空時間が長いのです。
本当に宙に浮いている時間が人よりもコンマ何秒か常に長い選手でした。
いつも元気で、明るく、素直な高校生でした。
アベは予備校では私立理系コース、私は私立文系コースです。
毎朝、アベが自転車で私の下宿先に来て
一緒に予備校に通っていました。
今から思うと彼が居なかったら、途中で予備校に行くのも
面倒になっていたかもしれませんね。
お母さんのお葬式に行き、じっと悲しみをこらえている
アベの姿にいつもの元気なアベとは違うアベがそこにいて、
私は何も声を掛けることができませんでした。
アベもお母さんの死を乗り越えて、見事に志望校に合格しました。
受験前に母親の死を経験して、なおかつ、勉強を続けて
志望校に合格するなんて高校生としては立派ですよね。
今は学校の先生です。
多分、自分の人生の中で自分にとって必要で
最も集中して一つにことに没頭した時間、それがこの
浪人時代でした。
さあ、いよいよ、東京での大学生活がスタートします。
■アルバイトと人形劇とカミさんと大学生活
「よし!大学では英語を勉強するぞ〜。」
と意気込んだのは1週間くらいでしょうか。
西武池袋線の富士見台駅で
築30年は軽く経っているだろうと思われる
超アンティーク!?なアパートが新居となりました。
四畳半でトイレは共同。
もちろん風呂は無し。
線路脇なので一日中ガタガタする部屋でした。
しかし、角部屋で日当たり最高。
駅改札からダッシュで部屋まで30秒。
遮断機が鳴ってから走っても電車に間に合う。
広々とした銭湯まで徒歩2分。
綺麗なお姉さんのいる喫茶店まで3分。
美味くて安い定食屋まで2分。
味噌野菜ラーメンが絶品のお店まで1分。
そして、パチンコ屋まで5分。
という学校に行かない生活にはもってこいの環境でした。
入学式が終わると大学の校庭では
クラブやサークルの勧誘があちこちで行われていました。
アメフトと落研、演劇に興味があったのですが、
大学の運動部はキツそうだし、落研のノリも田舎から出てきた
私にはちょっと抵抗があり、演劇も暗いなあ・・・という感じで
校庭をプラプラとしてました。
すると校庭の一角に陣取っていた目の垂れた
人と目が合いました。
その人は「まあ、お茶でも飲めや。」と椅子を勧め、
話を始めました。
その話の面白いこと!
小噺や駄洒落のセンスが抜群なんです。
「なんて面白い人なんだ〜。」
私はその人の話術に完璧にハマってしまいました。
しばらくしてその人は
「茶店でも行くか!」
と私と数人の先輩らしき人を誘い、大学近くの喫茶店に
つれていかれました。
さらに1時間ほど面白い話を聞き、最後に
その人はこう言いました。
(男)「おまえさあ、ウチのサークルに入んなよ。」
(私)「はいっ!!」「ところでココはなんのサークルなんですか?」
(男)「人形劇。」
(私)「えっ、人形劇・・・(絶句)。」
ということで私は人形劇団に入ってしまったのです。
「人形とはいえ演劇にも近いし、まっ、いっか!」
というノリです。
結局、その劇団で私は4年間どっぷりと人形劇に浸かってしまうことになりました。
普段は幼稚園等を回って人形劇を上演し
公演料を頂き、そのお金で年に2回劇場を借り切り
大人向けの人形芝居を上演します。
もちろん脚本、演出、役者、照明、音響から人形作りまで
すべて団員が行います。
1年生の時の幼稚園公演で初めて役をもらいました。
それは前説。上演前の会場を”温める”役目ですね。
役をもらった私はここでまたコツコツ型の性格がでてきました。
公演前には都内に住んでいた親戚の家に行き、
そこの幼稚園児と一緒に遊んで、幼稚園で流行っている歌を仕入れ、
アニメソングを覚えました。
また当日は黄色の網タイツにお面姿で正義のヒーローに扮し登場です。
しかも、壇上に上がる階段でワザとコケて園児の笑いまで取りました。
■カミサンとの出会い。
ちょうどその頃です。カミサンと出会ったのは。。
ある日、私は劇団の練習のために立教大学構内の5号館の
教室に向かいました。
集合時間より少し遅れて教室に入った私の目に数人と談笑している
カミサンの姿が目に入りました。
その瞬間。
「うわ〜、かわいいっ!!!!!!!」
それから1ヵ月後には
「きっと、オレはこの娘と結婚するなあ。」
と感じていました。
それから結婚までに10年近くかかりましたが、
この勘は当たっていたことになります。
当時は柏原 芳恵ちゃんに似てたんですよ。
(1980年代に松田聖子や河合奈保子と人気を分かち合ったアイドルですね。)
自分の取っている授業にはほとんど出ていなかったくせに
カミサンの授業にはよく一緒について出ていました。
授業後は人形劇団の練習に出て、その後、アルバイト代が入ると
よく池袋の街で飲んでいました。
池袋で飲んで食べてから当時カミサンが住んでいた
千葉まで電車で送って行きました。
それから池袋に戻ってくるともう西武線の最終電車がなくなっています。
だから、線路をつたって何時間もかけて下宿まで歩いたり、
池袋の公衆電話に電話帳を敷き詰めてその上で寝たりしていました。
今から考えると「若い!」ですね。
アルバイトは卒業までず〜っと
とんかつ屋さんでバイトをしていました。
当時、ラフォーレ原宿とニュー新橋ビル、そして銀座の白いバラ
(創業昭和6年!の超有名なキャバレーですね。)の向かいに
お店を出していたとんかつ屋さんで週に3、4日アルバイトを
していました。
ここのとんかつがまた美味いんだっ。これが。
当時は20歳前後だったので食っても食っても腹が減る年頃です。
とんかつ屋さんのまかないは美味かったなあ・・・。
肉厚で、ころもがサクサク、口に入れると
じゅ〜っと肉汁が口いっぱいに広がる。
特製濃厚ソースがまた絶品!
キャベツはしゃきしゃきと新鮮で、
大釜で炊き上げたご飯は当然美味いし、野沢菜とゴマを
混ぜたお新香も美味い。
(社長元気かなあ〜。)
ここだけの話ですが、閉店後に掃除をしていると社長が先に帰ります。
その後、よくアルバイト仲間で勝手にとんかつを揚げて、
ご飯炊いて、ビールを頂いていました。
(社長ゴメンネ〜。)
人形劇団ではずっと役者をやっていました。
大人向けの公演ではちゃんとした劇場に
ケコミという人形劇用の舞台を作って、
その後ろで、人形を操りながらセリフを言うんです。
自分で言うのもなんですが結構上手かったんです。
人形扱いもセリフ回しも。
そして、アドリブでお客さんを笑わせるのも好きでした。
お客さんの反応が直に伝わってくるので、自分のアドリブや
セリフでお客さんが笑うとウキウキワクワクしてきて
快感なんです。
3年生の時に部長になりました。
そして、自分でオリジナルの脚本を書きました。
夏目漱石が「I love you.」という英文を
「月が青いね。」と訳したという記事を読んで、
その話から着想して書いた脚本です。
笑って、ほろっとして、泣ける、歌あり、踊りあり、コントありの
脚本を書きました。演出もしました。
公演前日夜に照明や音響もつけて通し稽古を行いました。
その時に、劇団員になって初めて舞台の中ではなく
舞台の外から人形劇を見ました。
「こんなに綺麗だったんだ・・・。」
私が舞台の外から見た人形劇のお芝居は
キラキラと輝いていて、面白くて、華やかで
それはそれは美しい世界でした。
実は自分で演出しながらあまりに感動してぽろぽろと泣いてしまいました。
当時は人形劇以外の一般的な演劇も好きで
よく池袋や下北沢の小劇場にもお芝居を見にでかけていました。
まだ、無名だった三宅裕司 さんが主催するS・E・Tの舞台は
面白かったなあ。
また、カミサンが劇団四季の選考に参加したこともあるほどの
ミュージカル好きだったので四季の舞台もよく見に行きました。
■就職活動。
そして、大学も終盤になると就活の時期に突入しました。
勉強はほとんどしていなかったので成績も中程度でした。
(そういえばフランス語のテストで全く回答が書けなかった時に
答案用紙にフランス小噺を書いたら「A」評価をもらったなあ。
教授ありがと!!のどかな時代でした。)
就職活動の時期になっても自分の行きたい方向が分からず、
下宿のアパートで就職情報誌をパラパラとめくっていたら
紙おむつシェアナンバーワンという文字が目に飛び込んできました。
それはユニチャームの会社案内でした。
それから、何故か「ナンバーワン」という言葉の響きに引かれ、
「そうだ!1位の会社を基準にしよう」と思うようになりました。
それからホット缶コーヒーシェアナンバーワン、
紙おむつのシェアナンバーワン、映画配給シェアナンバーワン、
がん保険シェアナンバーワン、サッシのシェアナンバーワンといった基準を持つ
会社を回り始めました。
紙おむつのシェアナンバーワンの会社に面接に行く時には
西武池袋線沿線の薬局を回り、紙おむつの調査をしたり、実際に自分で
履いてみた感想をまとめてレポートも持参しました。
その甲斐あってかその企業では最終面接まで行くことになり、
自分ではその会社に入るものだと勝手に思っていましたが、
しかし、役員面接で見事!!に選考にもれてしまいました。
そりゃそうですよね。
成績も悪く、卒論も書かず、ゼミにも属していなかった
学生を採用してくれるわけがありません。
最終面接で落ちた後に再びパラパラと就職情報誌を
めくっていたら今度は「添乗員派遣実績日本ナンバーワン」という企業を
見つけました。
会社概要を読んでみると「セールスプロモーション業務、アドバータイジング業務、
ツアーコンダクター派遣業務・・・」といった業務内容が書かれていました。
当時はセールスプロモーションもアドバータイジングもその意味するところが
全く理解できず、「一体、こりゃなんの会社じゃ?」と思っていたのですが、
面接に行くと社長をはじめ役員の方もみな若く活気に満ちた会社でした。
「何をやっているのか良く分からんけど、まあいい会社っぽいなあ。」
と思いながら、ずいずいと選考試験と面接が進み、
気がつくと内定をもらっていました。
その頃には他の会社は全て選考にもれていましたので
「これも縁かな」
と勝手に思い、その会社への入社を決めました。
私は楽しかった大学生活に別れを告げて、いよいよ社会人となったのです。
■使えない社員登場!でも、見えないものを売る原型を
学んだ社会人生活。
その会社では営業部に配属されました。
仕事の内容は広告代理業務と販促業務だと言われていましたし、
確かに研修でも概要は聞きましたが
実際には何をどうする仕事なのか全く理解不能!でした。
配属が決まったその日の夜に直属の上司となったO課長に
会社の近くのお店に飲みに連れて行ってもらいいました。
このO課長にはその後、公私共にお世話になるのですが
その日の夜にこう言われました。
「いいか、酒井。これからお前はいろいろな人と出会う。
これだけは覚えておけ。人の良いところだけを見るようにしろ。」
この言葉は今でも忘れません。
そして、課長と一緒に旅行会社や高級料亭、大手スーパーの販促部等を
営業する毎日が始まりました。
会社は虎ノ門交差点の近く。
霞ヶ関ビルをはじめとするビル群にかこまれたオフィス街。
そのビルとビルの間をビシッ!!とスーツを着て
颯爽と歩く広告代理店の営業マン。
「よ〜し、仕事をバリバリやって、俺も社長になるぞ〜!!」
と最初の数週間は思っていたような記憶があります。
しかし、月日が過ぎれば過ぎるに従い、こんな思いが強くなってきました。
「オレって会社員に向いてないんじゃないか・・・。」
だって、営業に行っても課長の尻について回るだけで
打ち合わせも、会議も全て課長が話すのを横で聞いているだけ。
自分では何を話していいのか分からないのです。
当然、広告代理店ですからデザイン事務所やカメラスタジオ、
プランニング会社、印刷所、雑誌社等も回りますが
何をどう提案して、どう仕事を回せばいいのか
まったく分からないのです。
今から思うと当時は「扱う目に見えるモノとしての商品」が無いので
「何」を「いくら」で「誰に」売るのか全く
腑に落ちていなかったのです。
だから、いつもクライアントと制作会社と媒体会社の間を
ピンボールの玉のようにあっちにいったりこっちに行ったり
うろうろしているだけ。単なる御用聞き、メッセンジャーです。
そして、「誰」が主導権をとればいいのか分からなかったんです。
今から考えると仕事で主導権をとってその仕事を進めるという
概念すら私には無かったのだと思います。
企画なんて考えたこともないし、
デザインセンスなんか無いし、
広告のことも知らないし、
印刷のこともよく分からない。
見積もりを作ってもそれが高いのか安いのか分からない。
クライアントの業界についても素人だし、
販促計画なんか立てられない。
そもそも販促って何?反則、はんそく、そりゃ何の略??
プレゼンなんか緊張してできないし、
打ち合わせしても突っ込まれると答えられない。
制作納期もどれくらいかかるのか分からんし、
そもそも代理店ってそもそもなんで存在するの???
クライアントや業者さんに聞かれたことも
「社に戻って上司に確認してみます?」
って、それじゃオレは何で存在してるの???
全然、誰の役にも立ってないじゃん。
周りのみんなは何でこんなに仕事に熱くなれるんだろう?
どうして夜遅くまで頑張れるんだろう?
何でみんなでそんなに語れるんだ?
それはオレにはできんぞ。どうしてだ。
何故、みんなそんなに自信を持っているのだろう?
なんでそんなに説得するのが上手いんだろう?
どうしてお客さんの前でそんなに堂々としていられるのだろう?
なんで自分の時間を使って、そんなに一生懸命にやるのだろう?????
何で?オレにはそれができないのだろう・・・。
みんなやっているのに。
数年経っても毎日こんなことを思っていました。
そして、こう思っていました。
「つまんない。誰か何とかしてくれ」
ダメダメ社員ですね。本当に。
私が上司なら愛想を尽かしています。
でも、直属の上司も隣の課の上司も
よくいろいろな話を聞かせてくれました。
でも、「やろう!!」という意欲が湧かんのです。
ある時は
「お前はもっと自分を出せ。そのままの自分を出せばいいんだよ。」
と言われました。
当時は全く理解不能、でした。
馬の耳に念仏。猫に小判。豚に真珠ですね。
週末は朝まで飲んで、カラオケ。
休みの日はほとんど朝から晩までパチンコ。
当然、給料も「あっ!」と思うまもなく無くなります。
社会人になってもよく池袋の丸井でキャッシングをしていました。
カミサンとは同棲状態だったのですが
よく愛想を尽かされなかったものだと思います。
当時は椎名町に住んでいたのですが、カミさんはともよく外食しました。
(カミサンは学生時代から優秀だったので
ちゃんと上場企業に入社してバリバリ働いていました。)
当時の椎名町ってうまいラーメン屋さんやお好み焼き屋、
洋食屋、すし屋、カラオケスナック、居酒屋がたくさんありました。
特に線路脇にあったお寿司屋さんの大将と女将さんには
よくしてもらいました。
カネもあまり無かったのですが毎週のように
そのお寿司屋さんに行っていました。
大将と女将さんも私たちの懐事情を良く分かっていてくれて
いつも安い値段でたくさん美味しいお寿司を食べさせて頂きました。
大将と女将さんに頂いた私とカミサンの名前入りの
立派な湯飲みは当時から20年経った今でも
毎晩使っています。
仕事には打ち込めず、飲んで食って、遊んでという
状態でしたので、その頃は仕事以外のこと自分の存在価値を認めるために
会社以外で自分の居場所を探していました。
それでボディビルのジムやパントマイム教室に通っていました。
ちょうど、その頃、池袋の名画座で「ロッキーフェスティバル」が
催されていて、私の好きなロッキーが1、2、3と上映されていました。
その上映を見終わってすぐに池袋の西口にあった
ボディビルジムに駆け込み
「入会しますっ!!」
と申し込み、その日からトレーニングを始めました。
体を大きくすると自信がついて、やる気が起きるとも
思っていたのかもしれません。
そのジムは当時ボディビル界の「山口百恵ちゃん」と言われていた
西脇美智子さんのご兄弟が経営されていたジムだったと記憶しています。
最初の頃、マシーンの使い方を説明してくれたインストラクターの方がいましたが、
その方が説明をするたびに何かが胸の辺りでもこもこと動いていました。
「ん、なんだろう?」
と思いながらも説明を聞いていましたが、
「あっ、もしかしたらこのもこもこは胸の筋肉じゃないか!」
と気がつき
「スッゲ〜。」
等と思い感動!?したことを覚えています。
入ったばかりの頃はひょろひょろだった私の周りで
筋肉ムキムキのいかつい兄さんたちが
「ふんっ、う〜〜〜〜〜んむ。うお〜〜〜っ!!」
と雄叫びを発しながらやけにデカいバーベルを
ぶんぶん振り回していたので、超ビビリながらトレーニングを行っていました。
でも、しばらくして話をするようになると
みんな、ガタイはでかいけど、意外と優しい人ばかりなんです。
器具の使い方や方法、注意点等丁寧に教えてもらっていました。
トレーニングを開始して、3ヶ月もすると
目に見えて筋肉が大きくなりだしました。
成果が見えてくると面白くなり、どんどんのめりこんでいきました。
週に4日はトレーニングに通っていました。
結局、そのジムには池袋を引っ越すまで7、8年くらい通ったかな。
その後も普通のアスレチックジムの会員になって
週に何度かトレーニングはしていました。
その頃にトレーニングの習慣がついたので、あれから20年近く経った
今でもトレーニングやストレッチは定期的に行っているので
健康のためにはよい経験となりました。
東武デパートのカルチャースクールで開催されていた
パントマイム教室にも通ってました。
生徒は2人だけ。
小さな箱に閉じ込められた人間を表現する?!パントマイムや
壁、綱引き、風船の膨らまし等を練習していました。
後々、これらの芸?が仕事の飲み会で披露されるようになりましたので
このパントマイムは仕事の役にたったかもしれません。
■ニューヨークの夜は超面白かった。
この会社員時代に仕事上で特筆すべきことはありませんが、
(一体会社で何してたんでしょ)この会社は旅行の主催や添乗員の派遣業務も
行っていた関係で海外旅行に行く時に簡単なレポートを提出すると
会社から半額補助が出たんです。(バブル時代ですね。)
そこで海外旅行初体験をすることとなりました。
行き先はサイパン!
会社の同期や仲の良い先輩たちと10人くらいで出かけました。
宿泊はハファダイビーチホテル。
初めての海外旅行で気分は最高。
仕事を離れて気の合う仲間と毎日、プール、海、シュノーケリング、
ジェットスキー、連夜の飲み会で超楽しかった。
帰りの空港に向かうバスの中で
「あ〜、このまま草むしりの仕事でいいから、ここで住みたい。」
と本気で考えていました。
成田では空港職員に
「君は一体何人だね?」
とからかわれるほど、顔は日焼けでボロボロ、身体は真っ黒でした。
それから会社に居る間に
ハワイに2回、セブに1回、ニューヨークに2回、そしてまたサイパンと
楽しむこととなりました。
特にニューヨークは面白かった。
1度めは同期で一番仲の良かった同期と二人でクリスマス時期からお正月にかけて
出かけました。
20代の男2人旅なので怖いものナシ。
マイナス15度の寒気の中、ニューヨーク中を歩き回りました。
ジャズクラブに予約を入れて生演奏を聴き、
ブロードウェイでミュージカルを観てセリフも分からないのに感動して、
マジソンスクエアガーデンに入ったらハルクホーガンが暴れていて大喜びし、
ハドソン川沿いの美しさに我を忘れて思わず涙して、
美術館を巡って閉館ギリギリまで絵を見まくって、
映画館の最前列で封切られたばかりのゴッドファーザーを見て
ストーリーが分からず眠ってしまいイビキをかいて怒られて、
タイムズスクウェアの新年のカウントダウンの大合唱して、
地元のバーにふらっと入って飲んでたら、
お互いに言ってることは分からないのに同い年くらいの地元の
あんちゃんたちと妙に気があってビールを飲みまくって騒いでたら、
カウンターに居た地元のオジサンにからまれて泣かされて、
はしゃいでから泣いている日本人を哀れに思ったのか
マスターから慰められて、道端でモドシ!ながら、
ブルックリンブリッジを渡って、風邪ひいて気持ち悪くなったけど、
おでん屋に入って気合で2時間で治して、
地下鉄に乗って間違ってダウンタウンで降りてしまい
ビビりながら撮影しまくって、といった感じで
1週間で主要な観光スポットは全て踏破してきました。
ほ〜んとこの旅行は楽しかった。
しかし、どんなに海外で感動しても
日本に帰ってくるとぼ〜っとして仕事には身が入らず、
相変わらずダメダメ社員の状態が続いていました。
■結婚してください。
ある時、会社帰りにいつものお店で先輩と飲んでいました。
その先輩がこう言いました。
「お前はいつになったらなおちゃんと結婚するんだ?
早く結婚しろ。今日、帰ったら結婚すると言え!」
なおちゃんとはウチのカミサンですが、
その頃私はカミサンと付き合い始めてそろそろ10年になろうかと
いう時期でした。その頃は既に一緒に住んでいました。
仕事も出来ずに、無目的にふらふらとしていたので
結婚はまだ先だなあ・・・と思いながら過ごしてきていたのですが
その先輩の言葉を聞いた時に初めて
「結婚」を意識しました。
「そうか、そうだよなあ・・なおちゃんのためにも
はっきりさせないといけないなあ。」
と帰り道に思いながら、西部池袋線の椎名町駅に降りました。
駅の改札を出て右前にある不動産屋の前を通り、
ガード下をくぐり、ラーメン屋を越えて道なりに右に曲がります。
そのまま真っ直ぐ進むと立教大学の裏手につながります。
道の途中にあるタバコ屋を左に曲がり、30mで家に到着です。
その夜、私はなおちゃんにプロポーズしました。
結婚式は立教大学構内にあるチャペルで挙げました。
ガチガチに緊張しながら式を終えると
チャペルの外で大学の先輩、ともだち、後輩、高校や中学の友だち、
親戚がライスシャワーで祝福してくれました。
披露宴も大学に隣接したセントポール会館。
カミサンのウェディングドレスは義妹と義母の手作り。
義妹の本職なんです。
カミサンは宴の途中でお色直しをしました。
黄色のドレスに着替えました。
私はお色直しはしませんでしたが、
係りの人が「一緒に退席してください。」というので
カミサンと一緒に退場して、お色直しの部屋に行きました。
その部屋にはヘアメイクさんとスタイリストさんかな、2人の
女性が居ました。彼女たちがニコニコしながらカミサンの髪を直したり、
メイクをしてくれました。
それは澄んだ空気の満ちたキラキラした部屋で
きれいに輝いているカミサンの周りで天使が
「きゃっきゃ!!」と言いながら
嬉しそうに空を飛んでいるような景色でした。
そんな結婚式を経て、
「よしっ!心機一転、仕事にガンバロ〜。」
と、多分一時は思ったはずですが、相変わらず
だらだらとした生活を送っていました。
今でもカミサンに
「ほぼ毎日飲んでたねえ。」
と言われますが、そのとおり本当にほぼ毎日飲みに行っていました。
当時はどんなに飲んでも酔いつぶれるとか、
暴れるということは一切ありませんでした。
でも、ある日のこと。
隣の課の上司と言い合いになり、カッときた私は
その上司の顔面を殴ってしまいました。
そしてあろうことか外に出て工事中の看板を持ち上げて
その上司に投げつけたのです。
大問題!ですよね。
翌日は無断欠勤して一日家にいました。
その翌日に同じ課の先輩が電話をくれました。
「おい、今日、船に乗りに行くぞ。」
確か竹芝からだったと思いますが
その先輩と遊覧船に乗り、ひがな一日を過ごしました。
その日、その先輩は一度も前々日の夜のことには触れずに
ずっと一緒に居てくれました。私は心から感謝しました。
翌日、私は会社に行きその上司に謝りました。
上司はこう言ってくれました。
「おっ、何のことだ。あああれか。気にするな。」
会社では仕事に対しての情熱はもてなかったけど
上司や同僚、お客さん、業者さんには恵まれていました。
みなにかわいがってもらい、仕事を教えてもらいました。
「ここでずっと平凡に一生を過ごすのだろうなあ・・・。」
そう思っていたのですが、
ある日の朝、私に転機が訪れたのです。
■人生の転機
その日、会社に居ると1本の電話がかかってきました。
「今日、これから時間ある?
会社の誰にも言わずに来て欲しいんだけど。」
電話の相手はいつも取引のあった会社のデザイナーさんからでしたが、
その口調がいつもとは違っていたので
「何だろう」
と思いながら指定の喫茶店に行きました。
そのデザイナーさんは仕事のみならず
プライベートでもいろいろとお世話になっていた人です。
少し年上だったので私はその人をお兄さんのように感じていました。
その人曰く、
「会社辞めて、社長になる気はあるか?」
私、驚いて曰く、
「え。え〜っ!?#$☆%〜??? 何言ってんの?」
それからすったもんだ、なんだかんだ、
紆余曲折を経て、その日から数ヶ月して
私は会社を辞めて、独立することになりました。
それは、28歳の春のことでした。
事務所を借り、名刺に「代表取締役」という肩書きが付きました。
その時は成功するとか失敗するとかそんな考えは一切なく、
何か大きな流れに流されるままに流れていったという感じです。
もちろん、世の中がバブルだったとはいえ
経営経験も、能力も、特段の商品も、人脈も、資金もない
フツーのあんちゃんが肩書きを社長にしたからといって
そのまま成功するわけもなく、独立から一年後には
負債が1400万円以上になりました。
税金も社会保険料も払えなくなりました。
でも、「そこから」がスタートだったと思います。
私が自分の人生で「なんとかしなきゃいかん」と思い始めたのは。
メルマガでも書いたことがありますが
神様がこう思ったのだと思います。
「こいつはこのままじゃ。会社で大した仕事もせずにフラフラと
一生を過ごす。尻に火をつけるためにまずは会社を辞めさせて、
自分で商売をさせて、よくよく自分の人生を考えるようにしてやろう。」
人はなかなか行動しませんね。
本当に切羽詰らないと「行動」しない。
私がやっと真剣に仕事や商売のことを考えるようになったのは
この頃からです。
それから、広告制作の仕事に本腰を入れ始めました。
だって、本当に今月の給料が払えない、支払いができないような状態に
なっていたから、さすがの私も真剣にならざるを得なかったのです。
会社勤めの頃はあまり仕事はしませんでしたが、
それでも7年近くその会社にいたので、印刷媒体の広告ツールの作成や
販促イベントの運営等の進め方は分かっていました。
そこで広告制作のディレクターとして
営業に出るようになりました。
普通に営業に行ってもなかなか仕事にはなりませんでしたから、
独学で当時出始めたばかりのパソコンを覚え、
企画書の書き方について書かれた本を読んで、
つたないながらも自分で提案書を書いて、ツテをたどって営業に行きました。
プレゼンを行う時も、事前にストーリーを組み立て、
事務所を借りていた雑居ビルの屋上で予行演習を何度もしていました。
■仕事が面白くなってきたぞ。
そんなことを続けていたら
ふとした縁である大手新聞社の子会社から初仕事を頂きました。
その会社では主に企業の入社案内や社員の採用ツールの制作を行っていましたが、
次第にその会社の営業担当と一緒にクライアントを訪れ、制作ディレクターとして
コンペに参加し、入社案内の制作を受注するようになってきました。
半年もするとほぼ毎日のように打ち合わせが入るようになり、
会社のお金もなんとか回るようになってきました。
広告物や印刷物を制作する時にはクライアント、代理店、デザイナー、
コピーライター、そしてプランナーやカメラマン、スタイリスト、モデル事務所等も
スタッフとして一緒に仕事をすることがあります。
前にも書きましたが会社員時代には何か制作物を作る時でも、
この中で「誰」が主導権をとればいいのか分からなかったのです。
当時はデザインのことも、コピーのことも、撮影のことも、企画のことも
素人である会社員の私が「主導権」をとって仕事を進める
等ということが出来なかったのです。
しかし、独立して仕事をするようになってからは
「私」が主導権をとるようになりました。
それはこう思うようになったからです。
「その制作物のことを一番真剣に考えている人が主導権を取って仕事を進めればよい。」
だから、私はクライアントから頂いた資料を誰よりも読み込み、
クライアントの意向を注意深く聞き、
何を、どうやって制作すればよいのかを真剣に考え始めました。
このプロフィールの文章を読んで頂いているあなたには
会社員時代の私とこの時の私の仕事に取り組む姿勢が
「全く違っている」ように思われるかもしれませんが、
その変化は「徐々に」というよりも確かに「いきなり」変わりました。
人は「同じ仕事」をしていても
その取り組み方が能動的にか受動的かによって
意識ががらっと変わってくるものですね。
(私の場合には資金繰りをどうにかしなくてはいけなかったので
取り組まざるを得なかったわけですが。)
どんな仕事でも「そのまま右(クライアント)から左(制作スタッフ)へ流す」
ことはせずに、必ず自分の手で企画書や構成案を書き、それを元に打ち合わせをして
自分が考えたコンセプトで、自分がイメージしたデザインで、自分が考えた内容に
なるように仕事を進めていました。
もちろん、私はデザイナーでもコピーライターでもカメラマンでも
なかったのでデザインを描いたり、文章を書いたり、撮影をしたりすることは
できません。
でも、下手クソでも自分の手で描いた絵やデザイン案を元に
デザイナーと打ち合わせをしました。
つたない文章であっても、自分で考えた切り口やテーマ、構成を元に
コピーライターと打ち合わせをしました。
コピー用紙の裏に自分の手で絵コンテを描いて
カメラマンと打ち合わせをしました。
そうすると仕事が面白くなりだしたのです。
それはそうですよね。
だって、「自分が考えたとおり」のものが
「完成」してくるのですから。
広告制作の仕事って打ち合わせとか会議を経て
頭の中に浮かんだ「目に見えない、形の無い、無の状態」から
「目に見える、手に取れる現物」を生み出す作業です。
それが「自分」で描いたとおりの「現物」が出来上がり、
しかもクライアントにも喜ばれ、しかもお金が手に入るわけですから
面白いに決まっています。
この面白さはその仕事のことを一番真剣に考えて能動的にかかわり、
主導権を取って進めることによって得られるものです。
この頃から、やっと私は仕事の面白さが分かってきたのです。
毎日、打ち合わせで飛び回っていました。
そういえばこの頃、あるコンビニで新入社員向けの教育ビデオの制作を
請け負った時には新人スーパーバイザーの先輩役で出演もしました。
なんとまだ売れていなかったワハハ本舗の佐藤正宏さんと
柴田理恵さんと共演だったんです。
佐藤さんも柴田さんも超優しい人でした。
また、防衛庁でプレゼンもしました。
緊張しましたがポスター制作の仕事を受注し、
横須賀の海上自衛隊で乗艦し、座間で陸上自衛隊の訓練を取材し、
入間の航空自衛隊で撮影をしました。
乳製品の製造大手企業の仕事をした時には
帰りに山ほど乳製品を頂きました。
一部上場企業の硝子工場で撮影をした時には
工場内をびゅんびゅんと飛び交う熱いガラスの塊を目にしました。
新興宗教教団のお仕事をした時は
打ち合わせの指定時間が夜中の2時でした。
舞浜のMKホールに信者の方が集結した時は圧巻でした。
有名スポーツ用品メーカーのカタログ撮影では
一日に何百点もの商品を撮影してヘトヘトになりました。
六本木のカジノバーの草刈正雄似のオーナーには
「オープンのDMには印刷した偽札を入れろ!」
と言われ困りました。
老舗割烹のメニュー作成では強面の料理長にビビリながらも
無事にパンフレットの納品ができました。
全国第2位の参拝客数を誇るお寺で
うし年の初詣用に牛が何百等も登場するポスターを提案しました。
ある有名スーパーの新人研修の撮影のために
カメラマンと称してハワイまで撮影に行きました。
牛丼チェーンの会社案内は修正、修正で大変でしたが
撮影時の牛丼は美味しかった。
議員会館で後に防衛大臣を務めることになる
議員さんの選挙ポスターの打ち合わせも大変でした。
しょっちゅう陳情の方がお見えになるので
なかなか打ち合わせが進みませんでしたが、
美味しいお菓子や果物を頂きました。
今から思い返しても充実した、楽しい仕事ばかりでした。
また、広告制作の受注と平行して、
いろんなことに手を出していました。
今、思い出せるだけ挙げると・・・。
・写真を拡大印字する機械の代理営業。
・自宅のペットの写真を印刷した年賀状の制作請負。
・パソコン通信(当時はインターネットはまだ無かったのです。)を
利用したデータの販売。
・絵画の転売。
・モデルの派遣。
・アイデア商品の販売。
等をちょこちょことやっていました。
ペットショーが開かれている会場に行って
店開きをしたこともあります。
ペットショーの合間にオーナーさんとペットを一緒に
撮影して、それをその場でキーホルダーやペンダントに
加工してあげるのです。
「何か、儲かることはないか?」
といつも思っていました。
■パソコンのインストラクター資格を取る。
それまで独学でパソコンやインターネットのことを
勉強していたのですが、ある日、事務所で雑誌を読んでいたら
MOT(マイクロソフト・オフィシャル・トレーナー)という
文字が目に飛び込んできました。
MOTとは当時マイクロソフトが認定するパソコンインストラクターに
与えられていた資格なのです。
その瞬間、
「この資格を取りたいっ!!」
と思ってしまったのです。
それからすぐにケイコとマナブを買いに行き、
資格取得のための講座のあるパソコンスクールを探しました。
何箇所かMOT取得講座を開設しているスクールがあったのですが
一番期間の短いスクールを探した所、渋谷にあるスクールに通うことに決めました。
当時は30歳くらい。
スクールに初日に教室に入って一番ビックリ!したのは
私以外はほとんど20代前半と思われる女性ばかりだったことです。
30人近く居た生徒さんの中で男性は私を含めて2人だったと思います。
「あらら、こりゃ場違いなトコに来ちゃったかな。」
とも思いましたが、授業料も全て振り込んであったので
約半年ほど講義に集中しました。
結局、最後まで受講して、即試験を受けて
一発合格っう〜〜!!
(嬉しかったなあ。この時は)
そういえば、MOT資格取得者、特に当時は男性のMOT資格者が
少なかったせいか、リクルートの「仕事の教室」という雑誌からも
取材されました。
この頃から私の仕事の興味の対象が
広告からパソコンへと変わってきました。
そして、新宿でPC教室を開いていた社長さんにお願いして
そのPC教室でインストラクターをさせて頂いたり、
出張講習、ネットの接続代行等も始めるようになりました。
当時はまだパソコンにソフトをインストールすることも
出来る人が少なかったので、秋葉原でパソコンとプリンターと
ワードやエクセルを仕入れてきて、全てセットして、
基本操作を教える「初心者おまかせパッケージ」として
新聞広告も出したこともあります。
(思惑はずれで申し込みは少なかった・・・。)
漠然とながら「パソコン教室を開きたいなあ」
と思い始めていました。
ちょうど時を同じくして、私に頻繁に広告制作の仕事を発注してくれていた
担当者が会社を辞めることになりました。
そして、その人も私と同様にディレクターとして制作会社に
引き抜かれていったのです。つまり同業となったのです。
一番大口の担当者だったので精神的にも
金銭的にも大きな打撃を受けることとなりました。
そして、正直に言うと
広告の仕事にもちょっと飽きてきていたのも事実です。
■富岡八幡宮で露天商。
その頃、深川の富岡八幡さまで露天を出したこともあります。
知人が富岡八幡宮の宮司さんと知り合いで、
年末年始に境内産道脇に露天を出店しました。
場所は富岡八幡さまにある日本一の黄金神輿が飾られている社の
真ん前です。
八幡さまの近くの方は分かりますよね。
露天では顔写真入の卓上カレンダーを販売していました。
その場で参拝客の方の写真をポラロイドカメラで撮影し、
(当時はまだデジタルカメラの登場前です。)
5分くらいで卓上カレンダーに加工するのです。
晴れ着を着た女性や新年の祈祷をした後の家族の顔写真入の
新年のカレンダーなんて売れそうでしょ!
当時、八幡さまの年末年始の参拝客数は30万人と言われていましたので、
0.1%の人がウチの露天で買い物をしてくれると
これは嬉しいぞっ!と思っていたわけです。
(八幡さま、この不心得者をどうかお許しくださいね〜。
そちらに住んでいた時は毎年お参りに行かせて頂きましたよ〜。)
・・・しかし、but。
年の瀬12月30日からテントを借り、レンタルストーブと
テーブルをセットして露天開店っ!!
「よ〜し、がんがん儲けるぞ!!」
お店には社員Kと従兄弟の大学生にも
手伝ってもらうことにしました。
夜はさすがに寒くて露天内では眠れないので
近くのビジネスホテルの一室を借り、
交代で休むことにしました。
店の前の参道にも参拝の人がちらほら。
30日からもうお参りに来るんですね。
最初は恥ずかしくて声も出せません。
「・・えっと・・・カ・カ・カレンダーはどうでしゅかぁ。」
当然誰も立ち止まりません。
「カ・カレンダーです〜。え〜、あなたの顔をすぐにカレンダーにしますぅ。」
おっ、こっちを見た人がいるぞ。でへへ。
この調子だね。
ということで30分もすると呼び込みの掛け声も
慣れてきました。
「かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
あなたの顔で新年のかれんだ〜作りま〜す!!」
慣れてくると面白いので延々と繰り返します。
「かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
あなたの顔で新年のかれんだ〜作りま〜すよ〜。
あなたの顔がカレンダーになるよ〜。今ならすぐできちゃうよ〜。」
しかし・・・1時間経っても誰も買ってくれるどころか
店の前に止まりもしません。
「まっ、今日はまだ30日だし。
本番は明日からだな!!」
そんな風に自分を納得させて
その日の夜は露店のテントで
「うしっし、明日が楽しみだわい。」
と一人ニヤニヤしていました。
翌日はお昼からどんどん参拝客の数が増えてきました。
露店前の参道も人、人、人。
昨日の反省から今日は露店前に置いたテーブルに
サンプルを置いておきました。
社員と従兄弟の顔を真ん中に配置した卓上カレンダーです。
しかし、男の写真はあまり美しくない・・・。
そこで目の前を通った女性に声を掛けました。
「顔写真入りのカレンダーをタダで作ってあげる!」
そして、2枚撮影して顔写真入り卓上カレンダーを2組作り、
1組をプレゼントしました。
もう一組はサンプルとして店の前に並べました。
「おっ、だんだん、露店らしくなってきたぞ。」
それから何枚かのサンプルを作り、
本格的に呼び込みを始めました。
「かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
かれんだ〜いかがすっかぁ〜。
あなたの顔で新年のかれんだ〜作りま〜すよ〜。
あなたの顔がカレンダーになるよ〜。今ならすぐできちゃうよ〜。」
夕方からは参道は参拝客で溢れるほどになってきました。
店の前を後から後から人が流れていきます。
しかし、お客さんが誰も来ない・・・。
参拝客の流れをじ〜っと見ていてあることに気がつきました。
私の露店は境内への入り口となる大鳥居と本殿の間にありました。
参拝客は入り口の大鳥居をくぐり、参道を通り、
私の店の前を通って御本殿に向かいます。
そして、なんと参拝を終えた人は本殿で回れ右をして、
わき道から帰るのです。
つまり、参拝に来た人は御本殿までは正面参道を通るのですが
参道には人、人、人で溢れているので帰りはその正面参道から
帰ることができないので、本殿脇にある西参道や東参道からわき道に
出てしまうのです。
だから、露店を構えている私としては参拝客を
御本殿に向かう途中で捕まえて露店によってもらわないといけないのですが、
延べで30万人もの参拝客が目の前を通っているわけですから、
後ろからどんどんと人が押し寄せ、参道を歩いている人は
後から後から押されて「立ち止まれない」のです。
だから、参道を通る巨大な人の波が
ど〜っと目の前を流れるのをただただ見ているしか
できなかったのです。
声を掛けて、こちらをチラッと見る人はいるのですが
後ろから押されて前へ前へと進んでしまうので
立ち寄ることが出来ない状態です。
「あらら〜、こりゃしまったっ!!」
と思いましたが時既に遅し。
その日の夜は社員と従兄弟に
「今日は人の流れが多すぎてダメだ。
明日に備えて寝てくれ。」
ホテルに帰しました。
一人で露店に立っていたら初めて
周囲の様子に気がつきました。
隣で焼き鳥を焼いている露店のおじさんや、
お面やキャラクターグッズを向かいのお兄さん、
人形焼を焼いているお姉さん、くじを売っているおじさん、
プラモや凧を一杯並べているアンチャン、
縁起物らしい小物を並べて座り込んでいるおじさんは
呼び込みもせずに黙々と何かしています。
気がつくと昨日から声を張り上げて
バカみたいに同じ言葉を繰り返しているのは
私だけでした。
そして、お客さんが誰一人として
来ていない露店も私のお店だけでした。
私は思わず露店の裏へ回り、しゃがみこみました。
「オレは大晦日に何やってんだか・・・。」
なんだかとっても悲しくなりました。
その時です。
「すいませ〜ん!すいませ〜〜〜ん。」
お店から声が聞こえます。
慌てててテントに戻ると二人組みの女の子が
お店の前に立っていました。
「カレンダー2つ作ってくださ〜いっ」
「はい、はい、はい、はい!!!!」
きた〜〜〜〜っ!初お客様です。
「じゃあ、こっちの明かりのある方へ来て、
ここに座ってね〜。いい、座った〜??
はい、そんじゃあ撮るよ〜。笑ってね!!
はい、チーズ。ガシャ、じ〜、うぃ〜ん。カシっ。」
(ポラロイドカメラから写真が出てくる音)
「ちょっと待ってて〜。すぐに写真が出来るからね。」
(ポラロイドカメラで撮影した写真はじわじわ〜っと数分してから
画像が浮かび上がってくるんだよ。デジカメしか知らない世代は
びっくりだね。)
それから浮かび上がってきた写真を見て
目をつぶってないかチェックして、専用ホルダーにセットして
出来上がり!!
「はいっ!どうぞ」
「うわ〜、面白い、コレ。かわいい〜!!」
女の子2人組みはきゃっきゃと喜んでくれました。
ものスッゴ〜く嬉しかった。
カレンダー2組でニ千円の売上げです。
この2日間でニ千円の売上げ。
大晦日に寒風の下で二千円の売上げ。
いい年こいた大人が声を嗄らして二千円の売上げ。
でも、私はテントの中でしばらくその千円札2枚を
眺めていました。きっとニタニタしてたはずです。
誰も見てなかったけど。
結局、大晦日にカレンダーを買ってくれたのは
その2人組だけでした。
朝まで一睡もせずにテントにいて
新年を迎えました。
目の前は人人人・・・。
お客さんが来ないので私も初詣のお参りにをしました。
「新年明けましておめでとうございます。
世界が平和になりますように!
そして、ど〜か、商売が繁盛しますように!」
新春は寒い〜けど、ピーカン晴天。
参道は相変わらず人人人人人の波。
「あ〜ん、お客さんが来んのう・・・。」
としょげるのにも飽きてきた私は
いろいろと小細工を始めました。
本殿に向かう参拝客の目に止まるように
露店から参道に向かって垂直に手作りの看板をぶら下げてみました。
ちょっと参道寄りにテーブルを押し出してみました。
店の前のテーブルにたくさんのサンプルを並べました。
価格を書いたボードを立てて1枚1000円、2枚1800円、3枚2400円と
割引価格を書き出しました。
呼び込みの文言を変えてみました。
お客さんのフリをして従兄弟を店の前に立たせてみました。
陣中見舞いに来た友達にもサクラになってもらいました。
手作り看板も一枚では目立たないので何本も掲げ始めました。
す・る・と!!
一人が店の前で立ち止まりました。
しばらくしてまた一人、するとまた一人と
お客さんがテーブルの上に置いたサンプルを手にとって
興味深そうに眺め始めたのです。
「これ家族で一緒に撮ってくれる?」
「あいあい!大丈夫ですよ。」
「3枚撮って!!」
「はいはい、了解。」
「お参りした帰りに寄るね〜。」
「へい、へいっ。いってらっしゃいっ。」
・・・と徐々にお客さんが増えていったのです。
そして気がつくと店の前には黒山の人だかり。
呼び込みを続ける私の後ろで
社員Kと従兄弟が撮影とお金の受け渡しを
していましたが、手が足りなくなり
私もテント内でカメラマンに変身!!
お客さんを撮影して、写真が浮かび上がるまで待って、
出来上がった写真をお客さんに確認してもらって、
専用ケースに入れて代金と交換します。
しかし、この日はあまりに寒かったので
撮影したポラが浮かび上がるまでに
えらく時間がかかっていました。
そして、せっかく写真が浮かび上がってきても
お客さんの眼が閉じている写真だったりすると
また撮り直し。
その間にも店の前には人が増えてきていました。
「ねえねえ、5枚撮るといくら?」
「すぐ出来る??」
「子どもの写真を撮って欲しいんだけど?」
「さっき、3枚撮ってもらったんだけどもう2枚撮って欲しいよ。安くして。」
・・・とうとうキャパを超えるお客さんでテント内は溢れてしまいました。
その日は何百枚の撮影をしたでしょうか。
夜、ヘトヘトになってホテルに仮眠に行きました。
ホテルは神社の近くのビジネスホテル。
部屋に入ってシャワーを浴びて、缶ビールを飲みました。
「ふ〜っ。」
その時に壁にある汚れが目に止まりました。
壁に近づいてよ〜くその汚れを見ると
それはペンで書かれた落書きでした。
壁に飾られていた絵の脇に
「オレは絶対にやる」
そう書かれていました。
その落書きの主は何をやるつもりだったのかは
分かりませんが、なぜか私も
「よ〜し、オレもやるぞ〜っ!!うぉ〜っ」
と小さく叫びました。
その日はそのままバタンキューと眠りに落ちました。
たぶんニタニタしてたと思います。
そんな感じで正月3ケ日を富岡八幡様の境内で過ごしました。
最終日の夜、人の波もだいぶ減ってきました。
「あなたの顔をカレンダ〜にするよ〜!!あいあいど〜ぞ〜。」
とすっかり嗄れた声を出していると
2人組のアンチャンがやってきました。
アンチャンが言います。
「オレの顔でカレンダー作ってよ。」
う〜ん、どこかで見た顔のアンチャンだなあ・・・。
おっとそうだ、ウチの露店の左斜め前の露店で
お面を売っていたアンチャンです。
「あんたの声を毎日聞いてたら、
俺もカレンダー欲しくなっちゃったよ!」
この言葉を聞いた時に私は不覚にも
涙が出そうになりました。
私の店の周りは皆さん「本職」の方ばかり。
素人の私がバカの一つ覚えのように朝から晩まで
「あなたの顔をカレンダ〜にするよ〜!!
あなたの顔をカレンダ〜にするよ〜!!」
と連呼していたのをうるさく思っていたかもしれません。
実は最初の2日間くらいは周囲の露天商の人の視線が
キツかった!?んです。
左斜め前の露店でお面を売っていたそのアンチャンも
「何、騒いでんだよ。この素人は・・・。」
みたいな感じでず〜っとこちらを見ていたんです。
(自意識過剰!?)
だから、最後の夜にそのアンチャンが 「あんたの声を毎日聞いてたら、
俺もカレンダー欲しくなっちゃったよ!」
と言ったので、結構、ウルウルしちゃったんです。
「あいあい。ありがと・・・。」
私はアンチャン2人のニコニコした顔を
カレンダーにしました。
アンチャンは言いました。
「おっ、いいじゃん。コレ!ありがとっ」
・・・すっごく嬉しかった。
その日の夜、露店をたたんでから社員Kと従兄弟と
近くの居酒屋で打ち上げをしました。
酒の肴は「写真」です。
お店でお客さんの写真を撮る時についでに
サンプル用に撮っておいた写真が30枚ほど溜まっていたのです。
その1枚1枚の写真を見ながら
Kと従兄弟が言いました。
「これは宝物だね。」
ホント、心からそう思いました。
この年末年始の露天商は
どか〜んと儲かったっ!とは行きませんでしたが
とても面白い経験でした。
その後も、何度か祭事にあわせてアイデア商品を販売するために
露店を出店しました。
■泣いて、よだれをたらして、脱走した自己啓発セミナー。
そんな日々が続いていたある日のこと、
以前の会社の後輩から電話がかかってきました。
「酒井さん、飲みに行きませんか?」
「お〜、久しぶり。いいよ。」
で指定された四谷の居酒屋へ行くと、
既に後輩が座っていました。
会社の様子や仕事の話をしていたらあっという間に
時間が過ぎ、「もう一軒行こうか。」
ということになり2軒目に突入。
しばし、酔ってきたなあ・・・と、思ったその時
後輩が真顔で言いました。
「酒井さん!酒井さんに是非行ってもらいたい所があるんです。」
「へっ?何、いきなり。どこ行くの?ヒック・・。」
「セミナーです。」
「でへ〜、セミナー??何の?」
「自己啓発セミナーです。」
「え〜〜〜っ、ヤダよ。ウィ。」
「絶対に酒井さんには行ってもらいたいんです。」
「いや、ヤダ、やらやら、行かんよ。俺は。行かない。行きませ〜んひょ〜。」
とそんな押し問答を30分は続けたでしょうか。
後輩はさっきまでの酔いの回った顔から
きっ!とした真顔に戻り、背筋がピンっと伸びていました。
「酒井さん、お願いします。絶対酒井さんには行って欲しい。
酒井さんならきっと得るものが大きい。
酒井さんは行くべきなんです。」
「何だよ。そのセミナーに行って何するのオレは?」
「内容は言えません。」
「え〜、何それ?」
「内容は言えないけど、酒井さんならきっと
『行って良かった』と言ってくれるはずです。」
「よくわからんの〜。何でオレがいくの?」
「酒井さんは行くべき人なんです。」
「はぁ??・・・ちなみにどこでやるの、そのセミナー?」
「品川です。」
「何時間かかるの、そのセミナー?」
「4日間です。」
「でぇ〜え、4日間!?朝から晩まで?」
「はい。」
「いくらすんのそれ?」
「17万円です。」
「でぇ〜っ〜〜っ!高っ。何それ?何のセミナーなの?」
「言えません。言えないけど酒井さんはきっと『行って良かった』と言うはずです。」
「う〜ん、へんな宗教かなんか、それ?」
「違います。」
「じゃあ、何するのそれ?4日間も・・・。」
「言えません。」
「・・・内容も教えられないセミナーに、17万も払って、
とにかく行けってこと?」
「はい。もし、酒井さんが4日間終わってから
『つまらかなった』と思ったら全額僕がお返しします。
だから、さ・か・い・さ・ん・に・は・ぜったいに・い・っ・て・ほ・し・い です。」
「なんじゃ、そりゃ・・・・。」
で、結局、どんな内容のセミナーなのかも分からずに
私は後輩に「じゃあ、行く。」と言ってしまったのです。
■涙がドバ〜っ。
セミナーは品川で開かれていました。
会場に入ると30人ほどの人がいました。
最初に講師の方の話を聞いていましたが、
椅子に座っているのも辛くなるほど長い長い長〜い話でした。
覚えているのは
「成功している人の特徴は目的を明確に、具体的にする。」
という言葉。
「一体これは何のセミナーなのだ?」
と分からないまま、話を聞き、「部屋の端から端まで他の人と
違う歩き方で歩いてください。」などという課題を出されて、
「恥ずかしいなあ。もう・・・」と思いながらも
私はガチョウのような歩き方で部屋を歩きました。
その後、チーム分けされた私達には
1人の担当インストラクターがつくことになりました。
20代の女性です。
お昼にそのインストラクターからこう言われました。
「明日までにこの紙にあなたの人生の目標を書いてきてください。」
手渡された一枚の紙がなぜかとても白く白く見えたことが
印象に残っています。
そして、その日の夕方のことです・・・。
その日のセミナーも終盤にさしかかり、壇上のメインインストラクターが
こう言いました。
「それでは、みなさん。目を閉じてください。
・・・そして今日一日のことを思い浮かべてください。
あなたは今日一日何をしたでしょう。
では、次に昨日のことを思い出してみましょう。
あなたは昨日どんなことをしていたでしょう。
一昨日はいかがですか。一昨日は何をしていたでしょう。
そして先週は何をしていたでしょう。
一ヶ月前は。二ヶ月前は何をしていたでしょう。
あなたは学生の時、どんなことをしていましたか。
高校の頃はどうだったでしょう。中学はどうですか。
小学校の頃のあなたは何をしていたのでしょう。
幼稚園はどうだったでしょう。
あなたが3歳の時、あなたは何をしていたのでしょう。
あなたが1歳の時、あなたがまだこの世に生まれる前のあなたは
何をしていたのでしょう。」
照明が落ちた室内のあちらこちらで
すすり泣く声が聞こえてきました。
私はびっくり!しました。
「え〜!?なんで??何でみんな泣いているの?」
周囲のすすり泣く声の意味が分からず
目を閉じながら私は理解に苦しみました。
しばらくするとメインインストラクターが
「では、静かに目を開けてください。
そして今日は誰とも話をせずに家まで帰ってください。
では、きょうのセミナーを終了します。」
照明が明るくなり、周囲を見渡すと
目を真っ赤にして涙をぽろぽろと流している女性がいました。
泣き声をこらえている男性もいました。
私にはなぜ皆が泣いているのか
まったく分かりませんでした。
私はそのまま部屋を出てエレベータに乗りました。
そして、1階に着き、エレベータを出て、そのビルのドアを
開けて外で出ようとしたその時です。
「としお〜っ!!」
という声が聞こえました。
そして、頭の中で今までの人生が走馬灯のように
駆け巡り、次の瞬間、私の目からドバ〜っと滝のような涙が
流れ出ました。
私はフロアにヘナヘナと倒れこみ、立つことができなくなってしまいました。
ドアに手を掛けて、声を聞いて、頭の中を人生が駆け巡り、
泣きくずれて倒れるまでのこの間は、
おそらく1秒も無かったと思います。
涙がどんどん、どんどん、溢れてきて
止まらなくなりました。
その時に私は次のことを明確に悟ったのです。
「自分の人生は母の期待に応えようと努力してきた人生だった。」
そしてその人生は、母の期待に応えることのできない現実の自分との
ギャップに苦悩する人生でもありました。
つづく・・・。
というか実はこのプロフィールは
時間を見つけてまだ書いている途中です。
随時、更新しま〜す!!
こんなところまで読んでいただいたあなたに感謝!です。
ありがとうございます。
ここまで読んでいただいたあなたに幸あれっ!!

酒井とし夫
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